机の上にホオズキの綺麗に枯れた葉っぱがある。小指の先より小さな球体がたくさんついた小枝なんかもある。木材をすべすべに加工した飾り、溶岩が冷えかたまった石。動き出しそうな斑模様のすべすべな石。壊れたひょうたん。そういったものがいつのまにか作業机の上にたくさん置かれている。昨日ひろったどんぐりもあった。ほかにはキーボードとトラックボールとインクのつぼと万年筆とかは置いてもいいことになってる。

机の上にはPCや線や書類なんかは一切置かないようにしている。なぜなのかはよくわからない。ノートPCも机の上には置きたくない。もちろんモニタも机の上に座ってほしくない。モニタアームをつかってる。さいきん、机の裏に本体だとか配線だとかそういった一切合財を張りつきにできるデスクを大枚をはたいて買った。机の木材の素材はまったく気に入らないが、とりあえず机の上の空き地は広くすることに成功した。

部屋はすぐに散らかるし、昨日の食器が洗われないまま朝まで放置されていることもざだし、ソファの上にもパジャマの上だとかちょっとしか読んでいない短歌集だとか買い物袋だとか、旅行先でもらった綺麗な冊子だとかが思い思いの方向と位置にばらまかれている。しかしなぜか机の上だけは綺麗である。

 

 

パニツク

むかし、努力とか根性とかに対しての漠然とした憧れがあって、だけどもいったい何を努力し、何を根性したら良いのかよくわからなくて、今思うと不思議なのだけど、学校の部活動をがんばっていた時期があった。

がんばっていた、というのは正確ではなく、当時の僕は物事のがんばり方を知らなかった。闇雲に練習時間を増やすことが努力だと思っていた。できないことを徐々にひとつずつできるように、孤独に一人だけの課題を訓練で克服していく、そんな概念を若い僕は持っていなかった。むしろ物事というものは、ほぼ100%生まれ持った性質で出来不出来が決まると思っていた。それなのに、なぜあんなに練習していたのか不思議だ。努力していることを周囲に見せつけることが目的と化していたのか、やけくそになっていたのか、こんなに努力しても下手糞であるという自己認識をただ強化し続けていたのか、いつか本当に努力しなければいけない未来に備えたかったのか、同年代の生き生きした人々が飛び込んでいく試練みたいなものをただ避けて通ることに抵抗がある小心者だったのか、本当に上手くなりたかったのか、ヒマだったのか。よくわからないがとにかく練習していた。

部活動の三年間を締めくくる最後の大会で、僕は試合に出た。始まってすぐ、球を追いかけて上を見上げたら、そこには見慣れない体育館の強烈なライトがあって、その光を見た瞬間に、透明な泥のなかを泳いでいるように体が言うことを聞かなくなった。音も光もなにもかも遅くなった。僕の返す球は、どんなに力をこめても急流に抵抗できない死にかけた魚のように力がなくなった。床や壁がやけに近く感じた。仮に僕を運転しているパイロットが頭の中にいたとすると、彼がコクピットで泡を吹いて倒れたんじゃないかと思う。気がついたらあっけなく負けていた。

あの現象ってなんだったんだろう、てたまに考える。

自転車を100回くらい漕ぐにつき1回くらいの割合で、後輪あたりが突然「がきょ」と言うようになった。気にせずしばらく乗っていたのだけど、やがてその声が上がる頻度が増えていって、最後には10漕ぎくらいに一度「がきょ!」と何かを訴えるような悲鳴みたいなのが出るようになってしまった。自分でチェーンがくるくる回っている場所を調べたがどこが悪いかわからない。手がオイルで真っ黒になるだけだった。自転車がかわいそうなので修理しようと思ったがなんとなく面倒になってしばらく自転車に乗らない生活をしていた。

一ヶ月くらい経ったあるひ。散歩してたら近所に自転車屋さんがあるのをみつけて、そこへ持っていって見てもらった。

くるくるーとタイヤを二回転くらいさせてから、「原因は」と自転車屋さんは言った。「チェーンが錆びついていて凸凹がうまく離れないからですね。チェーンを交換すればすぐに直りますよ 工賃込みでXXXX円くらいかかっちゃいますけれど」とはきはき教えてくれた。僕は知らない人と会話するとなぜか頭が働かなくなるときがあって、「あ、あ、あ、じゃ お願いします」と答えた。

その日のうちに部品を交換してもらってタイヤの空気も入れてもらって、その出来に満足した。自転車は静かになって言うことを聞いてくれるようになった。料金も新車を買うよりも遥かに安いし、部品を交換したらきっとさらに長く使えるに違いない。だけれど、後から色々と事前にしたかった質問が頭に浮かんでくる。「交換しないでサビを綺麗にすることは不可能なのか」「自転車のチェーンというのは互換性があるものなのか。なにかちょっと部品が合わないとかそういうリスクは全くないものなのか」とかとか。お店の人に文句があるわけではまったくないし、今回の判断が間違っていたとも思えない。でもこの先同じようなことがあって、もしもその場で知りたい情報をしっかり得たり検討しないまま、後悔するような判断をしてしまったとしたら怖い。

会社

とある会社で仕事をしている。ここの人達のごく一部は、何か自分達が優れた職能を持っていると自負しているようだけど、それは能力や解決できる問題の大きさや困難さから来ている実際的ものでは特にない。世間体なのかもらっているお金なのか、他者からこう見られているという自意識からくるささやかなエリート意識に過ぎず、そういったものに縋る習性も含め、ごく平凡というか光る部分がない人達である。

僕は正社員ではないので、できるだけ労力をかけず距離感に注意しつつ、自分としては恥ずかしくない仕事をすれば十分だとおもっている。恥ずかしくない、というのはあくまで僕自身が持つ基準であって、たぶんもっと手を抜いても仕事は回るし地球も回るし、雇い主から指摘を受けることもきっとないのかもしれない。

会社では奇妙な言動をとる人達が目につく。最近よく一緒に仕事をする人は、やたらとチャットとかなにかに書き込みをする。「こういう問題を解決していかないといけない」と、長文でしょっちゅうやっている。不思議なのは、彼が指摘しようとしている問題というのは既に解決されていたり、僕やその他手を動かしている人達が既に動いていたり、彼よりもよっぽど深く理解しているものばかりであることだ。つまり書かれたものは我々に向けられたものではない。また、問題だ、という割には一夜過ぎればすっかり忘れていたり、彼自身が提示した対策すら一度もやらないがざらである。このことから、彼の関心はおそらく問題の解決ではなく、問題があると発言することであると言えると思う。そして、いかにたくさんの問題を自分が扱っているかということをどこか僕には見えない誰かへ、犬笛のように知らせているのだと思うのだが、どうだろう。邪推が過ぎるだろうか。仮にそうだとすると彼の目的は首尾よく達成されているはずだ。

仕事をすること、問題を解決すること、優れた製品を提供すること、それを追求すること が目的ではない人が、会社が大きくなるとどこからか現れるようだ。彼らは、目の前のことに集中して遂行すれば短期間で終わることを、こねくりまわし、手の届く範囲にあるものをかたっぱいから混ぜ合わせ、なにか大きくて空虚な仕事モドキのようなものを育て続ける。彼らにとって仕事とは終わらせるものというよりも大きくするものらしい。できあがったそれはあまりにも奇っ怪な不味い料理の大盛りのようなものなのだが、それを見た者は彼らの賢さに驚嘆したりしている。巨大な仕事モドキの正体を見極めることが仮に賢いのだとすると彼らは賢いのかもしれない。すくなくともその賢さがないとできあがった巨大ななにかは使えないため、こういうタイプの人が出世する会社というものもある。ここでも、彼らの目的はおそらく達成されているので、僕とは目的が違うのだと思うことにしている。

正社員をしていた頃、生活の全て、労力の全てを仕事に費していた時期があった。そのとき僕は彼らのように自意識にまみれ、つくられた箱庭の中が自分の生死を左右する世界の大部分だとは思っていたのだが、空虚なパフォーマンスをしようとは思わなかった。退職する日、僕がつくったと自信を持って言える製品の、あらゆるアクセス権を自分で削除した。あまりにも入れ込んでいたので、それが僕のものではなくなることがとても奇妙に感じた。そのとき、会社の仕事をしている以上はその仕事は会社のものであって、自分の大事な時間やらなんやらを賭けてしまったとしても、それに見合うものは決して会社は返してくれないことがわかった。会社が悪いわけではまったくない。会社やら他人やらがたとえなにも返してくれなかったとしても、後悔しないようにしていたい。

散歩

昨日はあまり眠れなかったのになぜか早めに目が覚めた。洗濯をして、少し運動をして、いつもの飲み物をつくって一杯飲んで、神棚に備えている二杯のお水を取り替え、神棚に手を合わせ、今日も空気が吸えることや清潔な水が手に入ることや周りの環境も含めて人間としての存在が続いていることに感謝して、その後少し散歩に出た。神棚に埃がたまっているけど掃除していないなあ、と思ったがすぐに忘れた。

家の近所は住宅街で、特に行きたいところも見たい景色もない。僕は散歩をしながら何か考え事をしたり空想をしたり妄想をしたりするので、通った場所や周囲の景色をほとんど記憶していない。むしろ、背景を消しゴムで全部消してしまいたい。どんなに歩いてもそこは目に優しい真っ白な背景で、心地の良い曲線を描く足元の道以外はなにもない。そんな散歩があったらむしろ理想かも。どっちへ行こうかと迷うことはなく足が行きたい方向へ向く。帰り道のことを考えなくても、いつのまにか家に帰り着いていて、帰ろうかと思ったときには唐突に終わっている。そういう散歩でいいやー、という気もする。これを単純に考えると、「VRで実現できそうだね」という声が聞こえてきそうだけど全然だめである。体を動かすこと、というよりも歩く、ということが重要な要素だし、移動する、進む、というのは視覚情報を騙すだけではなにか足りない気がする。たぶん人間の体って歩くためにできてる感じがあるから。あと、背景が消えたほうが良いのはここが都市の住宅街だからであって、山の中とかは歩きたいです。土があって草木があって虫があって微生物があって何かが崩れかけていて細かく振動するようにいつもなにかが動いている、生きてるって感じの背景だったら良いですね。

散歩が大好きな人の話をたまたま聞いたところ、住宅街の家々を見て、その歴史や変化を観察したり考察することがおもしろいらしい。そんな目を持てたらやっぱり世の中もっと楽しくなるのかもね

溶けて消えた

「ああなりたい」、未来にこうなりたいという願望が昔からかなりあった。これは結局は、現状から変わらない自分を肯定するために想起されている自己防衛だったりする。ああはなれない自分が、今いる場所に留まっている自分が何か上の方を見上げている。なんか上のほうにいる他人やらなにやらと自分が体育座りしている場所を比較する。そして現在の状況に何か結論を下す。このままじゃだめだ。みたいな。実際に行動できているときは、実は今現在に集中しているので理想を語ったりとかはあまりしないものなのだが、行動の変わりに強い感情の想起によってエネルギーを消費して代用してしまうので、現状を肯定することになる。

今日はカレーを食べたら、体調が悪くなってしまい、なにか存在すら知らなかったものを崇拝するような摩訶不思議な海の向こうの音楽の悪魔的なイントロを聞いているような気分になって、長い長い昼寝をしてしまった。さっかい目がさめた。

くだらね

近頃は仕事を減らし、お金にならない遊びや訓練やものづくりに時間を割けるように整えている。

ところが脳みそが、体が、仕事のことを常に考え続けている状態に戻ろうとしている。そこから抜け出せていない感じ。仕事が未だに現実や生命の危機と結びついていて、これから 取り組んでいきたいことが宙に浮いた空想のようになっていて、手の中に入って来ない時がある。悪いときには数日間それが続く。

これは僕がサラリーマンの家系に生まれ、サラリーマンとしての生き方を周りに刷り込まれていることが影響しているので、頭のごく表面的な部分が思考を巡らせるだけではなかなか抵抗がむつかしい。

以前に、お金を一切稼がずにすごーく長期間暮らしてみたところ、これはかなり意識の改革に効果があったようだ。お金を稼がなくても別に死なないしなんらかの支払いが滞ったとしても大きな問題が何も起こらない。これを本当に何よりも強い現実として体験することは僕にとって大事だった。たとえ社会的な地位がなくとも誰かから避難されることもなければ、大切に思う人との関係が損なわれることもなかった。むしろ現在の自分を疑問視する心の声が減り、無駄なエネルギーの浪費がなくなり、人間関係は良好になった部分があった。むしろ健康になった。以前にもまして、お金というものが実体ではなく、空ろなものに感じるようになった。これも頭で考えれば簡単にわかることなのだが、実感を持つには、心の中の世界の、自分が座っている位置を大きく動かさなければいけない。と思う。(ちなみにそのときできた借金は返済した) 

残る問題は、虚栄心? 承認欲求? あるいは低い自尊心からでる、認められていないという不満、みたいなものが心の中にあって、それがふとした拍子に餌を求めてしまうことだ。仕事をすると簡単にそれを得ることができるし、正直、僕と同じで自尊心が低い人達がその場限りの見せかけだけの空虚な競争をしていたりすることが多い。それを実力で叩き潰したくなってしまう自分がいる。それを自覚できずに巻き込まれてしまうと、もうダメである。いつのまにかそのことを考えてしまい、エネルギーを浪費している。まずはそういうことに気づくことと、本当にやりたいことだけやること。