絵画教室に通いはじめたり

コンピュータを一日中いじり続ける仕事をしている。数学の数式は100年経っても腐ったり錆びたり朽ち果てないのと同じ意味においては、この箱の中には、汚ないものはなにもない。無菌状態である。この箱と向かい合っているあいだ、僕は人間が頭のなかで考えたものだけと向かい合っている。死なない。腐らない。時折、予想外の発見をみつけることもある。それはたまに脅威的に感じることもある。でもその裏側にはやはり人間がいる。ように思う。あるいは、コンピュータは人間が素朴に考える常識のようなものを無視して、そこに道があると思っていなかった場所を跳躍し、走り去っていくこともある。そこに有機的な「気持ち」のようなものを感じることもある。その裏側には人間はいないのかもしれないが、人間が考えた頭の中のせかいでの出来事であることは確かだ。その証拠に、観察というものをする必要があまりない。全ての出来事は、原理的には知識として情報として羅列することができてしまう。

現実を自分の精神を通して見る。視点を変えれば、七色に、いや250億色に変わり、それでも無限の盲点がある。それが世界なのだとしても、一日中箱の中と向き合っている僕はそのことを知らない。

絵画教室にいったら、見る、ということを教わった。

 

ぬっき

言葉。使い方忘れた。

なにか、外部から、頭と身体が動物的に反応する刺激をうける。言葉は、ほんの一瞬火が灯ろうとして消えて冷たくなる。それでおしまい。頭のなかの言葉は、感じたことの表現ではなく、耳と目が拾ったざわざわの断片しかない。うんち。ですらない。うんちは有機物ですので。

ほんとうは、言葉は、表現ができる。説明と表現は違うだね。

あー 言葉をもっと使おう、とおもったのでにっきを始めました。

 

「僕は手を伸ばした」という言葉に、修飾を足してみる。

「僕は無意識に手を伸ばした」

「無意識に」という情報が加えられた。しかしそこを読んでいる間に 「僕」も「手」の温度が遠のいてるような。

「僕の手が伸びた」としてみる。僕じゃなくて手がやってるので、無意識っぽいかんじがする。前よりも良いかも。

あだめだこれ陳腐ですか。

 

感じたことや観察したことを表現しよう。だいたい1秒経過すると感じたことって消える。早すぎて今の僕では捕まえられないが、ぬっきを書き続ければさわったりできるようになるかも。というかんじで。