ネコ

ネコは都会であっても道を歩いてることがある。タヌキもキツネもゾウもシカもいないし、樹木は道の上に枝を伸ばすとカットされてしまうし、草もむしられてしまうし、落ち葉ですらビニール袋に詰められて燃えるゴミに出されてしまうし、土が剥き出しなところは隙間なくコンクリートで埋められてしまうし、線香花火も花を咲かせることができないのに、ネコだけはいる。不思議だ。

しかしよく考えると、野良ネコとして活動していても、油断すると人間に捕まって去勢手術されてしまうらしいので、その辺の道端で出くわすネコは、本来の野生のままのネコではなく、都会用にカスタマイズされたネコなのだ。

だからやっぱり不思議なことはなにもなかった

ポテチ

  • ポテチには表と裏があって、見分けるにはまず 人差し指大の大きさのゾウを想像する。ポテチを床と水平に構えたとき、ゾウが滑り落ちてしまわないようにうまく乗っかる方が表らしい。表を上にして食べたると美味しいらしい。
  • ポテトチップスの略称が「ぽてとち」とか「ぽてちぷ」じゃなくて「ぽてち」なのは、詩人が考えたかららしい。
  • 人間は塩と油と糖質を一緒に食べるとなんでもおいしくかんじるので、水平線を指でそっとつまんで油でぱちぱち揚げて塩をまぶすとポテチと同じ味がするらしい
  • 最期はポテチを薄く均等にスライスする機械でスライスされて、地球は滅亡するらしい
  • ポテチが壊れてしまうのと同じだけの力を指先に込めて鍵を回すと、別の部屋に行けるらしい
  • 君はポテチが好きらしい

宝石

自ら光る物体よりも、光を受けて光る物体の方が綺麗だ。「まあ、綺麗だわね」って言われるのはどちからというと太陽よりも月のほうである。LEDライトより宝石である。

UFOはどっちなんだろうな。随分と遠くから来ているわけだから、もしかしたらくたくたに疲れていて、もう自分では光る力は残されていないかもしれない。月のように太陽の光を受けて光っているのかもしれない。大してやる気もないから、「ふっ」と風に吹かれたら、光るのをやめて墜落してしまうのかもしれない。もしそうだったら綺麗ね。

疲れたの種類

「疲れた」にも色々と種類がある。

まずは、「疲れた」と思ってる場合と、思ってない場合に分かれる。

どうしてなのかはわからないが、心が疲れているとき、意外にも「疲れたなあ」とは思わないものだ。ある時、突然、無意識の中に搭載されているブレーキがかかり、心と身体が停止してしまう。これがおそらく本来の意味の疲れている、だと思う。この域に行くまで疲れる場合というのは、ああ疲れたなあ、とか思っているヒマなんかなく、むしろすいすいと物事が進行していって遠くまで来てしまったときである。心と身体にはたぶん負荷がかかっているのだが、意識の上ではすべてが簡単にできる、という感覚なことが多い。意識は、自分がどれくらい難しいことをこなしているか計算に入れることができないものだ。

反対に、疲れたなあ、と意識の上で思っている時は、実は上記の場合よりも疲れていない場合が多い。疲れているというよりはむしろ、車で喩えると、ブレーキとアクセルを同時に蹈んでいるような奇妙な状態なんじゃないかと思う。むしろこの、同時に相判する二つの命令を遂行しようとしている軋みのようなものが、疲れたなあ、という感覚なのかもしれないとすら思う。

心地良い状態に留まりたい、という欲求は強くて、疲れたなあ、という気持ちを想起するだけでそれが達成できるなら、無意識はいくらでも疲れたなあとか言ってくる。そんなかんじがする。

 

捨てたもの

物を捨てることに罪悪感がある。だけど生きているとどんどん物を捨てることになる。捨てた物はたぶん知らないどこかの街で燃やされ、灰か何かになる。もしくはぺっしゃんこにされて寂しい場所に埋められる。その先にはたぶん何もないような気がする。詳しくは知らない。

電子ピアノ。すごく気に入っていた机。友達の友達からもらったディスプレイ。着なくなった服。買ったときは10年使おうと思ったけど3年しか使わなかったパソコン。バドミントンのラケット。バスケットボール。サッカーボール。捨てたもの。

思い返すと、もっと大事にできたんじゃないかという気もする。しかしそれは欺瞞である。もう一回、夢の島から捨てたものたちが戻って来て家のピンポンを押して訪ねてきたら。やあよく来たね。とお茶の一杯でもお出しして昔話に花を咲かせるかもしれないが、またずっとお家にいてくれよとはたぶん言えない。

正解

どんな物事でも、真剣にやるはじめると正解というものはないとおもう。算数の問題集のうしろをめくると書いてある正解というものはない。突き詰めていけば最後にはそれぞれの人が違った言葉で同じ結論を語ったりもすることもたまにあるが、そうでないことも多い。一歩一歩進むたびに、膨大な数の選択をしなければならないので、組み合わせの数が一秒ごとに爆発的に多くなるそのすべての選択肢の正解を誰かから教えてもらうことはできない。自分に合ったやりかた、これまで培ってきたやりかたを少しずつ育てていくしかない。

「実はこれが正解なんですよー」と、「正解」らしきものを与えることを生業にしている人というのがいて、けっこうみんなこれに弱い、ということに最近気がついた。

それだけであればまだ無害なのだが、こういう人達は、「正解」を消費者として買っていることを知識だと勘違いして、より劣った消費者に対して「正解」を教え始めたりするのでこれはとても有害だと思う。

たとえば植物は種類ごとに違った葉っぱのかたち、枝の伸びかたをする。その場所ごとに最適な形を探していたりする。形づくられる過程の途中で、別の植物の「正解」を押しつけられたら壊れてしまうだろう。

 

 

ドリブル

あはははは。と遠くのほうから聞こえる自分の笑い声を聞きながらテーブルの上の強いお酒をちびちび飲む。飲み物を口に運ぶ以外にすることがないので、グラスが空になってしまうと地蔵のように固まるしかない。皿は既に空になっている。

顔見知り程度の人と食卓を囲むのが苦手だ。感じの悪くない反応、おれは君達の敵じゃないとわかる反応をするつくりものの自分を盾にして、一生懸命 心の中の喜怒哀楽の火が消えてしまわないように薪とかをくべたり空気を送り込んだりしているのだが、気がついたら胸のあたりから頭のてっぺんにかけてさーっと冷たくなっていて記憶が飛んでいたりする。目の前の人がしている話がおもしろいとかおもしろくないとか以前に、ルールがわからない。なぜその話をするのか、それに対してなぜそんな話を返すのか、そしてなぜそこで笑っているのか。僕もなんか話に入ったりそこから派生した話をしたりなんかしちゃったりしようかな、と思うのだけど、バスケットボールをしている現場にサッカーのユニフォーム姿で乱入していきなり足でボールを蹴り飛ばそうとしているのではないかというくらいの違和感を感じて口を閉じてしまう。まず芝がない。僕は広大なフィールドの上の土や芝を駆ける靴を履いているのしな、と思ってしまう。もちろん、ボールを取ればいいってもんじゃないってことくらいはわかっているのだが、一生懸命話に耳を傾けても心が反応してくれないのである。たまに、いきなりバスケットボールを足で奪いとってそこがサッカー場ではないことを無視してドリブルをし続ける人物が紛れていることがあってなんだかうらやましい。